一過性の病

「王座!」

京本大我さん、SixTONESのこと好きですか?

(クソ新規が勝手に考える担当の「幸せ」についてのポエムブログです/担当になると決めてから一ヶ月も経ってないのにこじらせ方が急転直下だなあ!?という自覚はもちろんあります!!!)

 

 

Love-tuneの「CALL」を見たとき、病んだ。ドリボでもこのパフォーマンスを見たはずなのに、少クラで改めてその一人一人のパフォーマンスに圧倒された。

キスマイ担だった頃、あるいはジャニヲタではない頃からよく「デビュー感がすごい」という言葉を勝手に使っている。パフォーマンスが完成されているだとか、グループとしてまとまっているだとか、急に選りすぐりっぽいちびジュが集められたようなグループが発表されたときとか。グループに対してなんらかの(いたって主観的な)「デビューしそう」な要素を感じたときにそう言っていた。ものすごく刹那的な感情だと思う。

「CALL」のLove-tuneは、めちゃくちゃデビュー感がすごかった。パフォーマンスのキレやその新しさ、選りすぐられたメンバー、そして何よりLove-tuneの中も外も、楽しそうだと思った。箱で推し甲斐がありそうで、きっとデビューしたらその先も楽しいんだろうな、と。

 

SixTONESにデビュー感を覚えていないわけではもちろんない。むしろめちゃくちゃあると思う。個々の人気とか露出度とかオリジナル曲の数とかスキルとか、今すぐにでもデビューしたっておかしくない、そう妄信的に考えてもいる。デビューしてほしい、と思っている。

もし明日にでもSixTONESのデビューが決まったらたぶんビチャビチャに泣く。

 

ビチャビチャに泣くけど、でも、それで?

それって幸せ?担当である京本大我さんは、SixTONESがデビューしたら幸せになれる?

私はデビューの先を、楽しいと思える?

 

京本大我さん担当になろう、と決意したタイミングは、地元名古屋に「エリザベート」が来る直前だった。私はテンションが上がってしまって、気付いたら7回も観劇していた。同じ舞台をこんなに何度も観るというのは私にとって初めての経験だった。気づけばどんどんチケットが増えていた。一部のチケットについてはあまり褒められた方法ではない手段を使って手にしてまで、だ。

 

エリザベートを観て。京本大我さんの演じるルドルフを観て、私はますます大我さんのことが好きになった。

20歳の誕生日にルドルフのオーディションを受けて、受かったことを「運命だと思っています」と言った大我さん。

「~ミュージカルがこんなに楽しいという事も知りませんでした。これからも地道に努力して、こうしてまたここに立ちたいと思っています。これからも、温かく見守って下さい」大千秋楽でそう話した彼の姿に、涙が止まらなくなった。またミュージカルに出る彼を絶対観たい、そう思って。

 

でもデビューして、もしそれができなくなったら?

 

ミュージカルの有名作品は、全国を飛び回る数ヶ月スパンの上演が基本だ。ジャニーズJr.という立場で、しかも「推され」の大我さん。この先ジャニーズ銀座や滝沢歌舞伎やサマステや他のジャニ舞台にも出演するだろう。それだけじゃなくてデビュー組のバックに付く可能性もある。そんな状況で数ヶ月拘束されるミュージカルや外部舞台に出られるだろうか?

――辞めた方が幸せになれるのでは?ミュージカル俳優として生きていく道はあるのでは?

エリザベートが終わってから、そんな考えが頭をよぎる自分が居た。

 

こうも考えた。

SixTONESの誰かが、京本大我さんが。

SixTONESを辞めたらどうしよう。ジャニーズを辞めたらどうしよう。

 

辞めた方が、なんて可能性を想像しておきながら、辞めてほしくない、という気持ちが多分にあるのだ。だって、大我さんを好きになったきっかけは、間違いなく少クラで見た「SixTONESの」THE D-MOTIONのパフォーマンスだと思うから。「SixTONESの」京本大我としてのパフォーマンスの可能性だって、見ていたいと思っているから。

 

「脱退」には強いトラウマがある。ジャニーズではないが、リアルタイムで追いかけていたアイドルグループのメンバーの一人が辞めたことがあった。推しではなかったけれど、推しにとって、グループにとって大切な存在だった・欠けちゃいけない人だった、と思っていた。正直、それは決して円満な脱退ではなかった。イベントで彼の脱退が推しの口から説明されたとき、手がビリビリ震えるくらい嗚咽して泣いた。正直今でも彼のことを書こうとすると手が震える。

脱退の噂が流れた時、私は「彼がグループを抜けるなんてありえない。彼はグループが好きなはずだ。彼はグループにとっていなくてはならない存在だ」と、心の底から、盲目的に信じていた。保証なんてなかったのに。言質といえば彼の過去のブログとか、そのぐらいのものだったのに。でもことが起こってから振り返ってみると、それはただの私の願望に過ぎなかった。

 

結果として彼はグループを抜けた。彼なしで今そのグループは活動を続けている。

 

彼にはグループが好きであってほしい。

彼はグループにとっていなくてはならない存在だと私は思う。

私がそう思っていただけだったんだ、と気づいた。

 

アイドルの中身は生身の人間で、本当の幸せは中身である本人にしかわからない。

グループ自体に存続する意思と、大人のある程度のバックアップがあればたとえ悲しんだファンが離れても、新しくそのグループを愛するファンが現れ、グループは存続していく。

つまり極端な話、どちらでもことが回る仕組みはある。

 

京本ライン、PERFECTという曲、京安、バカレアには未練が無いという言葉…

そして、ミュージカル。

 

私は「SixTONES」の京本大我を見て、京本大我さんを好きになった。

でも過去の軌跡や、今本人が楽しんで臨んでいそうなことを考えると、もしかしてグループに執着はないのでは、もしかしてこのグループに所属しないという選択もあるのでは、と思ってしまう自分がいる。可能性として、選択として。

 

そんな目を担当に、好きなグループのメンバーに向けるファンがあるか?と自分でも思う。ファンがアイドルを信じないでどうする?と手放しで言えることは、とてもピュアで美しい行為だとも思う。

 

でもだめなときはだめで、ファンは手紙一枚書くことしか出来ない、そしてそれが効いているのか確かめることすらできない無力な存在なんだ、ということも私は知っている。ただ、それを知っているからと言って、もう悲しくなりたくないと恐れて何もせず、無料で享受できる媒体のみを摂取していくファンになれるかと言えば、それはできない。

私は私のために大我さんが動いている姿を見たいし、それに金を落とすと思う。傷つきたくないならファン辞めれば?はできない。傷つきたくないという理性が働く前に、あまりにも「姿を見たい」という本能の方が大きいので結果的に気づいたら金を払っている。大我さんの今を、この先をめちゃくちゃ見たいという精神状態にあるので、対外的に京本大我さんの「ファン」だと名乗っている。

だから正しいファンではないのかもしれない。私がお金を払うとき、それが京本大我さんのためになるかもしれない、ということはほとんど考えないから。私が彼を見たいから見に行っているだけから。

 

アイドルの選んだ道を従順に手放しで応援し続けるのが正しいファン像ならば、私はいつ何時でも「正しい」ファンではなかった。いつだって現実とのギャップやアイドルを取り巻く環境に怒ったり泣いたりあきらめたりするシーンを経て、でもそれでもそのアイドルが好きという本能には抗えず、最終的にはバカスカ金を使う。そんな「ファンじゃない人」から見たら「ファンたり得る」ような行動のみが積み重なっているだけ。たとえ内面でどんなに私が葛藤していたところで、行動として表れるのは対外的に見ればファンのそれだ。その「ファン」という言葉へのパブリックイメージが、私をぎりぎりファンたり得る何かとして存在させているだけだ。

 

私はしばらくこの辞めてほしい、辞めてほしくないという押し問答を続けるのだと思う。

大我さんの口から「どちらか」あるいは「すべて」を選ぶという、はっきりとした答えを聞くまで。

私が「本人の口から聞けた」という、大義名分を手に入れるまで。

 

 

「お花畑おたくにはなれなかった」というブログを拝読した。

cz57.hatenablog.com

私が正しいファン像なんだろう、と夢想しているのはお花畑おたく、と呼ばれているオタク、ファンのことだ。盲目で全てを全肯定するファン。こうしてほしい、こうなってほしいという望みはなく、ただ提供されるものを純粋に楽しむファン。

私はそれになれない。ファンたり得る何かとしての存在に過ぎない私は、結局のところ祈るしかない。彼が臨む道、彼が決めた道、という形をした、自分の落としどころにたどり着けるように。

祈る、とは、彼がどんな形であれ、彼が戦う芸能界で存在し続けられるように「ファンがこれだけいる人なんだ」と示せるその指標である「これだけ」の中に入り、会場の座席を埋め、なんらかの形で声を上げること(Jr.大賞とかがそうかな)ぐらいのものなのだ。

 

 

 

隣の芝はいつでも青い。

 

 

 

京本大我さん、SixTONESのことが好きですか?

 

私はあなたが好きな道を歩く姿を応援したいと思います。